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雑感について

シリアで見たこと、聞いたこと、味わったことなどを忘れないように覚書としてメモしたものです。

(1994年11月当時)

初めてのシリア、1994年11月

初めてシリアへ出張することになったのは確か1994年11月初旬ではなかっただろうか。 提出したプロポーザルが第一位となり、バタバタと準備をし、他の調査団員と同じ第一陣のメンバー としてシリアへ向かった。フライトスケジュールはパリ経由かと思っていたらローマ経由だった。フライトスケジュールを見るとローマは寝るだけで、夜到着し早朝発だった。ホテルは空港近くの米国系ホリデーイン、ビジネスライクなトランジットホテルだった。ホテルからは出ず、夕食をレストランで取り、その後、シャワーを浴びて横になったら寝入ってしまった

早朝、ホテルをチェックアウトし、フィミチーノ・レオナルド・ダビンチ空港からダマスカス行きのアリタリア航空に乗り込んだ。離陸後、眼科の景色はイタリア半島を横断し地中海上空へ入った。数時間後に大きな島を横断したのはクレタ島だろうかとぼんやりと外を眺めていた。このフライト、直行便かと思ったらアンマン経由であった、乗客を降ろして直ぐに飛び立ったが、ダマスカスに着いたときにはすっかり日が暮れていた。

初めての中東地域、なんら考えることなく入国審査を済ませ、迎えに来ていた車に乗り込み、 空港から暗い真っ直ぐな道を走り続けた。ダマスカス市街地に近づいたときに、屏風のように山肌に張り付くような街の明かりが正面に見えてきた。これがカシオン山だった。ダマスカスの気候は乾燥していて心地よかったが、もうこの季節の夜間は肌寒くなっていた。

ホテルの窓から望むカシオン山

宿泊先は、ダマスカスの町の中心に近いメリディアン・ダマスカスだった。賑わいのある豪華な ホテルというのが第一印象で、全員がこのホテルにチェックインした。初めての土地に暗くなってから到着するとホテルの立地がよくわからない、無駄な抵抗は止めて部屋に落ち着くことにした。部屋はカシオン山側だった、ベランダへ出てみると先ほど空港から市内へ入るときに見えた屏風のような夜景は、山の中腹まで市街地が広がっているからだというのがわかった。

翌朝、抜けるような澄み切った青空がダマスカスに広がっていた。日本も11月といえば似たような気候なのだが、ここの空はさらに澄み切った印象だった。明るいといろいろ見えてくる。ホテルは バラダ川沿いの大通り(Shukri Al Quatli)に面しており、眼下の通りを走る自動車がよく見え走行音がするが、正面玄関はその反対側にあったので静かだった。ホテルに隣接して、軍の施設と国防省があり、門付近ではAK47を持った兵隊がよく目に付いた。ホテルの敷地は民家とは接しておらず、道路とガーデンに囲まれていた。

私の部屋はカシオン山側を向いていたので、窓を開ければカシオン山が望めた。夜ともなれば、空港から来るときにみた宝石を散りばめた屏風のような街の明かりがいつも目の前にあった。夏季ならばベランダに出て夕涼みができたのかもしれない。立派なホテルなので、ここに滞在していれば不自由しないが、その変わりにシリアがなかなか見えてこなかった。朝飯には白米、味噌汁、漬物等の和食まで用意されていた。

ダマスカスで初ショッピング、下着一式

ダマスカスでは、そんな訳で翌日仕事が終わってから早々に買い物へ出かけた。ホテルで商店街の場所 (Al Hamra St.) を聞いて徒歩で出かけた。幸い、ダマスカスのお店は8時過ぎまで開いていており、ショウウインドウに販売している商品が値札とともに所狭しと並べられていたので何を扱っているお店かわかりやすかった。商店街を一通りみて回り感じが良さそうなお店の一つに飛び込んだ。

そのお店は地下にあったが、階段を下りていくと広い地下のお店が現れ客で賑わっていた。カウンターで下着上下を買いたい旨英語で説明すると(アラビア語はまったくわからないので)すんなりといくつか棚から出して見せてくれた。どこから来たのかとか等いろいろ聞かれながら、興味津々という感じで店員同士でなにやら話している。サイズが問題であったがMが適当ではないかということになり3セット購入した。

製品はシリア製の綿100%、生地の質は良くしっかりしており、値段もかなり安かった(日本と比較して)。 そんなわけで、Made in Syriaで身を固めた。このようにシリアでの最初の買い物は下着一式になった。後で聞いたがシリアは高級綿花の産地であり綿製品は質が良いという、確かに使ってみてもそう思った。

シリア電力省とともに

このときの仕事は電力省がカウンターパートであった。最初の頃はホテルで仕事をしていたが、しばらくしてアルヌース広場の近くにある電力省ビルの一室を仕事場として使えることになった。右も左もわからなかったが、どうもここは、先日ショッピングをした商店街の近くらしい。

電力省の担当者はクルド人だった、自らそう説明した。シリアにはかなり多くのクルド人が暮らしており、ダマスカスにはクルド人が多く住む地区があるという。このときははっきりと認識していなかったがシリアにはその他パレスチナ人やアルメニア人など離散した、土地を追われた人が多く住んでいる。
クルド人という意味はそのときはっきりわからなかったが、彼の口から聞いた範囲ではシリアは人種差別がないので暮らしやすいということだった。実際に彼は電力省の正職員だった。近隣諸国であるトルコやイラクでのクルド人問題は大きな社会問題となっていたからシリアは彼らにとっては特別の国家であったに違いない。

仕事は火力発電所のリハビリと職業訓練だったのでクルド人の担当者と関連発電施設を視察した。ダマスカス郊外に位置するソ連時代に支援(バーター)が始まった火力発電所、日本政府の円借款によるジャンダール火力発電所 (建設中)、バニアス発電所(日本政府リハビリ支援)、ホムス発電所(チェコスロバキア支援)、 電力技術者養成学校(ダマスカス郊外及びラタキア)などを訪れた。

何から何まで初めてのものばかり、火力発電がどのように行なわれているのかなど社会勉強をさせてもらった感が強い。この仕事は、仕事先から学ぶことばかり、私の担当は経済財務分析だったが何から手を付けてよいのやらという印象だった。

シリアの勤務体系

シリアの就業体系は、土曜日から木曜日まで、8時から14時まで、金曜日が休日である。週休一日であるが14 時以降に他の仕事をしている人も少なくないと聞いた。このようなシステムなのでランチは2時以降ゆっくり取るのが習慣らしい。副業を持つのは正業の給与だけでは生活が厳しいからで、シリアの大学卒は基本的に政府もしくは国営企業へ就職しなければならない制度であった。
注)2004年2月から週休二日制に移行した。

シリアのレンタカー

移動は運転手付レンタカーを借りていた。車種はVolvo 240 GL5だったと思う。運転手たちは外国人になれているのだろう、よく英語を喋った。もっぱら、運転手との会話からシリアのことを多く学んだ。

あるとき、ボルボのメーター(距離計)を見たときに2万キロの走行距離にしては・・・と思って見直したら一桁間違っていた。20万キロだった。もう一方のボルボも16万キロを示していた。新車登録から何年経っているのだろうか、それほど古くもない、大陸ゆえこのような走行距離となるのだろう。車はよくメンテナンスされていたので走りには問題なかった。

シリア料理

 シシケバブというラムの焼肉とマメをすり潰したものばかりかと思ったら、野菜や魚を含めて多種多様 な料理があった。魚は地中海沿岸が新鮮でいいのだがダマスカス市内でもいくつかのレストランで焼き魚や フライを食べることができた。

 とにかく食材を上手く使って料理を美味しくしている。必ず生野菜はついてくるし、シリアの漬物も気に入った。オリーブとカテージチーズの前菜も美味しかったな。 とにかく先入観よりも現実からシリアの料理を見直し、惚れ込んだ。

ダマスカス:シリア事情(抜粋)

 現在のシリアは1920年8月に調印されたセーヴル条約によってオスマン帝国から分離分割され、 いわゆる大シリア(今日のシリア、レバノン、パレスチナ、ヨルダンを含むおよそ30万平方kmの地域) から極めて人為的に国境線が確立された国である。

 現在のシリアの人口は約1860万人(2003年)、ダマスカス首都圏の人口は早晩500万人(増加率3.3%)に達すると いわれている大都市。(統計上の推計値170万人(2002年、ダマスカス市)、住民登録者100万人、実数400万とも言わ れている。

 気候条件、起伏の多い地形、地中海とアジア、アフリカ大陸に隣接しているシリアはその植物相の 豊かさが特徴的で、アレッポの松や糸杉、都市景観に潤いを与えるカシワの樹、農業地域での多種類の 穀物・果樹などがシリアでの日常生活を豊かなものにしている。